私が初めてネクタイというものを締めたのは、高校の入学式の日でした。真新しい制服に身を包み、鏡の前で慣れない手つきでネクタイと格闘していると、後ろからそっと父が手を伸ばし、「貸してみろ」と言いました。父は、お世辞にも器用な人ではありませんでした。普段はネクタイなどしない職人仕事で、そのゴツゴツとした大きな手は、繊細な作業には向いていないように見えました。しかし、父は私の首元で、ゆっくりと、一つ一つの手順を確かめるように、ネクタイを結んでいきました。「こうして、こっちを上にして、くるっと回して…」。その口調は、まるで子供に何かを教えるように、ぶっきらぼうで、少し照れくさそうでした。出来上がった結び目は、少し歪んでいて、お世辞にも格好良いとは言えませんでした。それでも、私はその不格好な結び目が、なんだか誇らしくて、一日中、首元を緩めることなく過ごしたのを覚えています。それから十数年後、父は病でこの世を去りました。私が喪主として臨んだ父の葬儀。深い悲しみの中で、私は黒いネクタイを手に取りました。自然と、あの日、父が教えてくれた不器用な手順で、ネクタイを結んでいました。プレーンノットという基本的な結び方ですが、私にとっては、ただの結び方ではありません。それは、父から息子へと受け継がれた、無言の儀式のようなものでした。鏡に映る自分の姿は,あの日,父が結んでくれた時のように、少しだけ歪んで見えました。しかし、その結び目には、父への感謝と、これから家族を支えていかなければならないという、私の決意が固く結ばれているような気がしました。葬儀のネクタイの結び方に、上手いも下手も、本当はないのかもしれません。大切なのは、そこに込められた思い。父が私に結んでくれた愛情、そして、私が父に捧げる最後の敬意。不器用な結び目は、父と私を繋ぐ、最後の、そして最も強い絆の証となったのです。